ぼくが猫語を話せるわけ

ぼくが猫語を話せるわけ

ペットは興味有る無しで二極化される。まるで興味がないか、溺愛しているかだ。そして溺愛している種類の人たちは大概自分のペットが世界で一番かわいらしいと思っているし、多くの場合写真や映像を持ち歩き、無関心な人たちにいやというほどみせびらかしては、よい反応を得られず憤慨しているよなあ。
しょうじさんと猫の距離感は絶妙だ。離れて暮らす仲の良い兄弟みたい。ひとつも自慢していないのに、自分のそばに猫を一匹置いておきたくなるかんじ!

かわいがられていることに自信のある動物は、犬でも猫でもそのすべてに共通する或る雰囲気があるようだ。
なんていうのだろう。どこか威張ったような感じ、いつもどこか文句ありそうなわがままな感じ。
(中略)
一方の飼い主の方だが、動物が可愛くなってくると、特にその後ろ姿が気に入るようになる、というのがぼくの犬を飼って以来の持論だ。
とりわけその後頭部のあたり。犬でも猫でもその両耳のうしろから首筋に向かう丸いふくらみのあたりを眺めていると、僕の中のもの想いのすべてが、急に時間とのつながりを失って柔らかくたゆとうような気がする。